断捨離で気づくこと

今日は部屋の片付けをした。

いらない服や余分に届いた国民年金の支払の紙など、色々なものを捨てた。
ちょくちょく片付けや断捨離はしているのになぜ毎回ゴミ袋は満タンになるのか。不思議である。

今年に入ってから、障害であろうものの影響でろくにバイトができていない。病院に行って正式に判断してもらったほうがいいのはわかる。でも自分みたいな人が多くなってきているせいか、どこも初診は受け付けていない。

電話をする気力もなくなってしまったし、どうせ死ぬんだからもう行かなくてもいいのかなとも思い始めている。本を読んでもネットを見ても動画を見ても、全てが自分だし、ずっとそうだし、またさいきんからこれもそうだし、みたいな気持ちの繰り返しだ。

自分の生きにくさや他人との衝突、そして最近からかんじる社会不適合者感。
もしかすると、じぶんはこういう障害なのか、病気なのか、だんだん気づくようになった。気づくようになってよかったと思うこともあれば、そうではないときもある。

そういうことは誰でもよくあるのではないだろうか。
知れてよかったけど、それを知ったせいでマイナスな気持ちになったこともある。
恋人の過去や、いわゆる今だから言える話。など。

けれど知りたい気持ちはあったし、知ろうとしたし、知ることにしたのは自分
その事実のせいで悲しんだりモヤモヤしたりすることを、いつのまにか事実や他人のせいにしている。してしまう。それはあまりにも自分勝手なことなのだと。

物事を噛み砕いて冷静に落ち着いて判断することが私は苦手だ。だから文字にしたり独り言のように口に出してみる。大抵の苦手側の人間はそれでうまくいくだろう。でも私はそれでもできない。だから何回も何回も同じことを繰り返す。繰り返して繰り返してやっとすこし前進することができる。人生における自分の全てはいつもこうやって、ヘトヘトになりながら、出来がボロボロでもそれを無理に認めて生きてきた。

でも、社会はそれを許さない。絶対に足並みを揃えなければいけない。もとの力が人より低いということは関係ない。必ず掲示した完成品を持ってこないといけない。

それがいつも苦しかった。悔しかった。生きにくさとは個々にあるのだと思った。自分の精一杯、精一杯よりももっと精一杯が認められない。許してくれない。

そんな気持ちを抱えて生きている20数年、でもどうせ死ぬのでいい。認められなくても許してもらえなくてもいい。私という、あなた方にとって目障りでお荷物な存在はどうせ消えるので、いいのですよ、と言いたい。

迷惑をかけてごめんなさい。イライラさせてしまってごめんなさい。
自分のせいで相手に迷惑をかけたり嫌な思いをさせた天罰として生きにくさが与えられているのだろう。

じゃあ全部自業自得なのだな。何もうまくいかないのも、ずっと一人ぼっちなのも。