想像力の矛先

あまりにも考え込む癖がある。

怒ってもないことや知りもしない場所での出来事。
実際に見ても聞いてもないことを自分の中に作り上げては落ち込む。

なので心の底から信頼できる人はいない。
仲のいい友達も恋人も、信用なんてしていない。できない。

もしも自分の信じていた人に裏切られたり傷つけられたりすることを考える。
過去に小さくてもそういうことをされるともう二度とこの人のことを信じることはできない。できるはずないと思う。



けれど、考えすぎて1人で悲しんだり相手を疑うことで出てしまう言葉で自分で自分を傷つけてるということはわかる。
何度も紙に書き起こして、自分を大切にしようと考えた。でも全然だめだ。

この年になってつくづく思うのは、子供を育てることは本当に大変で難しいことなのだと。自分は親になるつもりもないから偉そうに言える立場じゃないけれど。

考え方も性格も似てほしくないところが似ている。
だからといって親の育てのせいにしても意味がない。

人を信じること、自分に自身を持つこと、疑わず考えすぎずに生きること、
こういう単純なことはどうしてこんなに難しいのだろう。

だれかとたのしいことをしてても、思い出を分かち合っても、結局この人たちには優しい家族がいて、安心できる家があって。
自分なんかがいなくても何もマイナスなことはなく、どっちでもいいんだろう。

きっと最後は裏切られて、ひとりぼっちになるなんてことはわかっているのに、自分を必要としてくれるのが嬉しい。幸せは幸せのままで終わるわけない。
自分なんかが幸せになれる未来が少しも見えない。そう信じれるわけもない。

信じよう信じようと思っても、些細なことで積み上げたものが簡単に壊されてしまう毎日なのだ。

お金があればいいのだろうか。なにか能力があればいいのか。

最低限の生活力とささやかな趣味とか。そういうのがあれば1人でも生きていけるのだろうか。猫とか犬とかと暮らすのか。

でもわかるのは、お金となにか武器がないと一生このままだということ。この年でみんな大学も卒業して就職なのに、こんなみっともない人生をどうしたらいいのだろう。

それでも夜がまた来て眠いから寝て、朝が来る。
お腹が空く。何も生み出せないのに消費ばかりしていくコスパの悪い生き方なのだ。

鬱積

どういうわけか簡単なことで何もかも終わらせてしまいたくなることがある。

小さい失敗やきっかけで、もう嫌だ、やめたい、会いたくない、とかいうふうに人間関係や職場などから逃げ出したくなる。

一番多いのは出鼻をくじかれたとき。面接するときの事務所がごちゃごちゃしていたとか。担当の人がなんか嫌だったとか。そんなあって当たり前のことが乗り越えられない。耐えることができない。

何も目的のない日々であれば別にいいのだが、貯金をしないといけない。
一人暮らしを始めるのにかかるお金をこの半年で貯めないといけない。最近は国民年金も遅れて支払っているし、どうにかしないといけない。

 

色々なものに追われて逃げ続けている。でも1番逃げてはいけない自分から逃げているのは本当に情けない。どうしたら逃げずに頑張れるのだろう。どうしたら自分に誇らしい自分になれるのだろう。

完璧主義じゃなくてもいいとは思うけれど、あまりにも哀れでどうしようもないのはいかがなものか。人ができること、できて当たり前のことをなんでできないのだろう。
こういうことをいつも考えては落ち込み、なのにすぐ忘れてのほほんとしている。都合のいい人間だなと自分で思う。

けれど自分の心の中には確実に、自分への鬱積が溜まっていっている。
これをなくすこともへらすこともできないから、もうこれ以上はと思って頑張ろうとするのに、そうおもえばおもうほどどんどん溜まっていくのだ。

これからどうすればいいのだろう。このまま後悔だけ残して死んでしまうのだろうか。

積み重ね

また逃げてしまった。

早急な貯金のために最近始めた清掃のバイト、研修日に熱出たと嘘をついてしまった。どう頑張っても寝付けずに朝を迎えてしまった。不眠で動ける年齢でもないし一度寝ずにバイトに行って倒れたこともあった。迷惑をかけるよりかは今休んで印象悪くなる方がいいと思った。

こんなことは自分を正当化するための言い訳にしかならない。
外で働くこと、新しく何かを始めることが自分の意思にそぐわない動機だといつもこうやって直前で逃げる。

いつのまにかこんなみっともない人間になってしまった。前までは頑張れたことができなくなってしまった。どうせ死ぬんだから、ってきもちで頑張ろうと思ってもこうやって結局逃げる。何一つまともにできない。

インフルエンザと嘘をついて、来週から研修を始めるということにはなったけど。
この派遣会社から連絡が途絶えたらまた別のバイトを探さないといけない。

今年に入って何十枚の履歴書を書いたんだろう。いくら無駄な交通費をドブに捨てたんだろう。こんなことばっかりで結局何もできないまま落ちぶれ続けていくのだろうか。

 

自分を助けてくれるのは自分しかいないのに、それはわかっているのにどうしても逃げる。「こういうひもあるさ、またもう一度頑張ろう」って考えられる範囲も既に超えている。人に迷惑をかけることしか脳がない。

人と同じことができないなら、みんなができることができないなら、自分にしかできないこと、それで誰かの役に立てることができればいい。

でも、そんなものもない。居る意味のない自分に毎日毎日がっかりする。

もう人の役にはたてないだろうし、お荷物でしかないと思う。
なので、せめてもうこれ以上自分のことを嫌いにならないような生き方をしたい。

誰の役に立てなくても、迷惑は誰にもかけないようにする、逃げないで生きれるようになりたい。これ以上後悔や自己嫌悪の日々を増やしたくはないって心に決めたのに。

来週、もしまだ頑張らせてもらえるチャンスが有るなら頑張りたい。
嘘ついて逃げて楽な道を選ぶと、必ず絶対に後悔しか残らない。自分をもう少し認めてあげられるようになりたい。自分にとって恥ずかしくない自分になりたい。

明るい日

子供が苦手である。
赤ちゃんも苦手だ。

泣きわめいたり騒がれたり、キンキンとした音が苦手なのだ。
特に最近の野良ガキというのは生意気で、悪いことをしても知らんふりをする。
そこが特に苦手な部分だ。赤ちゃんはしょうがない。

この野良ガキというのは、だいたい小学3年から6年あたりのものと考えていいだろう。

今日は久しぶりのバイトの日だった。
イベント会場での催し物は子供向けでテンションはだだ下がりだった。
いつものように時間がすぎるのをただ待ち続ける日のはじまりだった。


けれど、今日はいつもと違った日になった。


昼過ぎから勤務し始めて、夕方にさしかかったころ。
小学6年のときの担任の先生が見えた。

あの頃はまだ20代前半できっと新任で自分のクラスを受け持ってくれたのだろう。
話しやすくて時には厳しくて優しい、舞ちゃん先生だった。

舞ちゃん先生は、すごくきれいになっていた。
あの頃の面影とかを残しているのに、本当にきれいな人になっていた。

きっと舞ちゃん先生は私のことなど覚えていないだろう。
でも、ほんとうに懐かしくて、騒がしい会場の中でこの日は今までで1番穏やかな気持になれた。

話しかけることも、目を合わせることもしなかった。
あの頃の自分と今の自分を比較されるかも知れなくて、幻滅されるかも知れなくて。
見回りをするふりをして、泣きそうになりながらあの頃を思い出した。


舞ちゃん先生は、かっこよくておしゃれな男の人と一緒だった。
その男の人は小さい女の子を抱っこしていて、舞ちゃん先生は抱っこ紐をつけて赤ちゃんを抱いていた。

小さい女の子は、舞ちゃん先生を「お母さん」と呼び、男の人を「お父さん」と呼んでいた。舞ちゃん先生、奥さんとお母さんになったんだ。


とおくの方へ歩いていって、見えなくなっていく舞ちゃん先生、そしてそのご家族。
私にとってはいつまでも、舞ちゃん先生なんだけど、この日からは舞ちゃん先生はお母さんになった。どこにでもいる、お母さんのひとり。

しあわせそうな舞ちゃん先生を見て、嬉しくなった。
ここまでの紆余曲折は存じ上げないが、幸せそうで、楽しそうで、本当に良かった。

舞ちゃん先生、どうかこのままずっと幸せな日々を過ごしてくれるといいな。

感情的になることで得られるもの

感情的になったり怒鳴ったり泣きわめいたりすることはあると思う。大体の人はそうだと思うし間違ったことではないと思う。

恋人や友人や家族に対して怒りや悲しみの感情を抱く。
自分が信頼し好きな人であるからこそ自分のことをわかってくれない、傷つけられたと感じるとそれは他の人よりも大きく感じるのだ。

それが当然だしそれは自然なことだとも思う。
感情的になるのもしょうがない。





しかし結果として感情的になることでプラスになることや得られるものはとても少ない。芸術家くらいしか思い浮かばない。怒りをエネルギーに変えて生きて何かを得られる人はよほど才能があるか特別な人間だろう。

あれほどの体力を消耗し精神的に疲れて怒ったり泣きわめいたりしてもそれで得られたものとはなんだろう。たとえ相手を分からせることができても、いつのまにか離れていかれるのがほとんどだろう。

じゃあ無駄なことじゃないのか?むしろだれもいい気分にならないのではないか?
じゃあ感情的になることは生産性のない行動ということなのか。

ではここで、「感情的になる」のメリット・デメリットをあげてみよう。

【メリット】
・アーティストなら良い作品が生み出せる
・俳優なら演技がしやすい
・相手を圧倒させることができる
・スッキリしていい気分になれる
・面倒なやりとりをすっ飛ばして物事を解決できる

【デメリット】
・人から距離を置かれやすい
・相手を傷つける場合がある(トラウマを植え付けるなど)
・判断を誤る場合がある
・話し合うことが不得意になる
・一般人の場合得られるものが少ない


このような感じだろうか。
よく考えるとメリットは当事者のみで周りの人間にはなにもいいことがない。
なのにデメリットは周りの人間を傷つけることばかりだ。

ということは「感情的になってしまう」のではなく「感情的になりたい」だけなのではないのだろうか。


何も生まないばかりか失うものばかりということだ。
百害あって一利なしということか。酒タバコギャンブルと似たようなものか。

ここで「なりたくないのにどうしても感情が抑えられない。我慢しても無理だ。」
ということは、アルコール依存ニコチン依存ギャンブル依存とおなじなのか。



こう考えると鳥肌が立つ。
大なり小なり感情的になってしまうことがあるだろう。
自分に原因はないのに損をした、このひとのせいで損をした、などなど。

自分は絶対に悪くないのに、ということから、なんでどうして、というようなことまで。

そこで感情を捨てて向き合うことができると割と楽に解決できるのだろうか。
でも結局「感情的になる」以外の方法であらゆる物事とどう向き合うのか?と考えたときに残された方法は1つで、「感情的にならない」ということなのだ。

はじめはつらく失敗もするだろう。
我慢しても無理でやっぱりだめだ、ということもあるだろう。

しかしそれでいいのだ。今まで頼り切っていたものを捨て切るには相当な時間がかかるだろう。もしかするとまたさらに誰かを傷つけるかも知れない。
けれどもうそれはしょうがないのだ。その度に少しずつできるようになればいいのだ。

という気持ちで、余裕のある人間になろうと思った。
後悔することややり直したいと思うことをこれ以上増やさないようにするのだ。

自分は人よりも何もかもできるようになるまでが遅いので、人が富士山を3回登れる間にやっと1回登れた、という感覚だ。

でもそれでいいのだ。登れればいいので1回でも3回でも関係ない。人より遅くてもできるようになればいい。

無の時間

暇な時間ややることがない時間が幸せだと感じるはずだった。
けれどそんなのは最初だけで、何もやることがないと人は何かをしたくなる。
本当にわがままで欲深い生き物だと思う。この本能はとても邪魔くさい。


なにか予定を入れよう、なにかやることを増やそう。
でも遊びに誘える友達もいなければ勇気もないし、趣味もない。

このままではいけないと思った。なんだかどんよりしていくだけの日々になると思ったから。どうせ死ぬならマイナスな思い出はなるべくなくしたい。



ここで新たにバイトを始めることにした。
今やっているものもあるのだがシフトに全然入れない。これは自分自身の問題と言うよりかはイベントの監視スタッフというものなのでイベントがない時期は入れないということだ。

三日後に面接があるのだが、事前の電話にて、
本当はシフト自由希望だったのだが固定でもいいと答えてしまった。
求人にシフト融通聞くと合ったので面接時に聞いてみよう。

そんなこんなで何もしない時間というのを極力少なくする運動を開始した。
古本屋で50円の単行本も買った。
本はめったに読まなくなてしまったのだが久しぶりに読んでみよう。



少しずつ自分を嫌いにならないようにいられる生活を送れている気もする。

以前は人間が映るテレビを見るのが苦しくて、あたしンちばかりを見ていた。
あの日々はとても苦しくて毎日なんとか今日の自分を明日の自分に繋げていた。

なんで自分がこんな目に、という気持ちから自分で抜け出す気力はなかったけれど、時間がどうにかしてくれて今に至る。
自分のせいじゃないのに、底に落とされたら自分で這い上がらないといけない。

でもきっとどこかで自分の選択の末にこうなっているのだろう。
ちゃんとわからないのが苦しい。
いつも、いつのまにか暗闇の中居いる。つぎはそうならないようにと対策を考えたいのにいつもそれができない。考えられたとしてもいつもイレギュラーな場所へ行き着いてしまう。



こういう事は考えてもしょうがないのだと気づいた。少し外に目を向けることもやってみたい。他人中心の生き方をするのではなく自分の充実さを考えよう。

断捨離で気づくこと

今日は部屋の片付けをした。

いらない服や余分に届いた国民年金の支払の紙など、色々なものを捨てた。
ちょくちょく片付けや断捨離はしているのになぜ毎回ゴミ袋は満タンになるのか。不思議である。

今年に入ってから、障害であろうものの影響でろくにバイトができていない。病院に行って正式に判断してもらったほうがいいのはわかる。でも自分みたいな人が多くなってきているせいか、どこも初診は受け付けていない。

電話をする気力もなくなってしまったし、どうせ死ぬんだからもう行かなくてもいいのかなとも思い始めている。本を読んでもネットを見ても動画を見ても、全てが自分だし、ずっとそうだし、またさいきんからこれもそうだし、みたいな気持ちの繰り返しだ。

自分の生きにくさや他人との衝突、そして最近からかんじる社会不適合者感。
もしかすると、じぶんはこういう障害なのか、病気なのか、だんだん気づくようになった。気づくようになってよかったと思うこともあれば、そうではないときもある。

そういうことは誰でもよくあるのではないだろうか。
知れてよかったけど、それを知ったせいでマイナスな気持ちになったこともある。
恋人の過去や、いわゆる今だから言える話。など。

けれど知りたい気持ちはあったし、知ろうとしたし、知ることにしたのは自分
その事実のせいで悲しんだりモヤモヤしたりすることを、いつのまにか事実や他人のせいにしている。してしまう。それはあまりにも自分勝手なことなのだと。

物事を噛み砕いて冷静に落ち着いて判断することが私は苦手だ。だから文字にしたり独り言のように口に出してみる。大抵の苦手側の人間はそれでうまくいくだろう。でも私はそれでもできない。だから何回も何回も同じことを繰り返す。繰り返して繰り返してやっとすこし前進することができる。人生における自分の全てはいつもこうやって、ヘトヘトになりながら、出来がボロボロでもそれを無理に認めて生きてきた。

でも、社会はそれを許さない。絶対に足並みを揃えなければいけない。もとの力が人より低いということは関係ない。必ず掲示した完成品を持ってこないといけない。

それがいつも苦しかった。悔しかった。生きにくさとは個々にあるのだと思った。自分の精一杯、精一杯よりももっと精一杯が認められない。許してくれない。

そんな気持ちを抱えて生きている20数年、でもどうせ死ぬのでいい。認められなくても許してもらえなくてもいい。私という、あなた方にとって目障りでお荷物な存在はどうせ消えるので、いいのですよ、と言いたい。

迷惑をかけてごめんなさい。イライラさせてしまってごめんなさい。
自分のせいで相手に迷惑をかけたり嫌な思いをさせた天罰として生きにくさが与えられているのだろう。

じゃあ全部自業自得なのだな。何もうまくいかないのも、ずっと一人ぼっちなのも。